デイジー茶碗蒸し

音楽・食べ物についていろいろ

繋ぐ手

 去年後半から、コロナ禍で慣れない生活で疲れが蓄積してしまって、不安になったり、調子が出なかったり、そしてなぜか良いことがあっても悪いことがあっても、感動しても涙が出なくなった。私はライブで音楽を聞いたり、映画を見て涙を流すのが一つのストレス発散になっていたので、それができないのが想像以上にしんどかった。

 過去にもこういうことは一度あって。自分の弟の病気が悪化し、もう先がわからない状態で入院した時。当時、離れた場所で私は一人暮らしをしながら仕事をしていて、多分、もうこれが最後になるかもしれない、というお見舞いの時に、弟の話す声、幼い頃から繋いでいた手の感触を忘れないように、と強く心に思っていた。忘れないように、と言うより忘れてはいけない、ぐらいの気持ちだったかもしれない。

 少し前に、その時のことを思い出したのに、声や手の感触はもう忘れてしまったなぁと気付いた。と、同時に「忘れてはいけない」ではなくてそれを忘れてしまうことは悪いことではないんじゃないか、と思えるようになってきた。そんなある日、子どもを寝かせるのに布団に一緒に入って、手を繋いだ時、急に弟の手を握った感覚がすっと現れてとても驚いた。大人になって最後に繋いだ手ではなく、幼児の頃の、手がふわふわで汗で少しペタッとしている感触の手だった。子どもが寝た後、私は一人でお風呂に入って一人でこっそりと泣いた。久々に出た涙だった。悲しいとか寂しいとかじゃなく、心にすーっと何かが流れるような涙だった。

 泣きたい、現実に起こる辛いこと、悲しいことじゃなくて、ライブを見たり映画館のスクリーンで素敵な話を見て泣きたい。気兼ねなくそんなことができるのは、この先いつになるかわからないけど、その日までしっかり生きていかないとな、と思っています。